ツインリングもてぎのライドオンクラブの走行後、白河まで移動して一泊。
翌日ずっと行きたかった磐梯吾妻スカイラインに出かけます♪
って思ってたけどついに行くゼ!
YouTubeリンク↓
山塩ラーメンと磐梯山ワインディングと英世記念館が最高だった
記事の目次
ツーリングルート
予定のルートはこんな感じ⬇
白河
↓
R294
↓
猪苗代湖
↓
磐梯吾妻スカイライン
↓
奥裏磐梯らぁめんや
↓
白河
こんなルートを予定しています。
奥裏磐梯らぁめんやの営業終了時刻は15時なので、それまでには余裕をもって行けそうです。
事前に調べてみると11〜13時はかなりの待ち時間がありそう。
ピーク時から少し外して行きたいと思います。
白河駅を出発
白河駅前のコインパーキングにエスカを留め置いて出発!
サーキットとは違ってツーリングギヤを持ってきたらクルマの中がパンパン。
街乗りメットのX14、GoPro機材バッグ✕2、ツーリング用ブーツにジャケット、シートバッグ、一眼レフ、等々・・・
とにかく持ってくる物が多すぎてクルマの中はクチャクチャw
なにわともあれ、無事出発できました♪
R294の絶景
前日のモテギで、まさかの夢競争団の海◯沼さん親子にバッタリ遭遇!
今日のツーリングの予定なんかを話していたら、「白河から猪苗代湖に向かうR294が絶景でオススメだよ!」
とアドバイス頂きました。
それは良さそう!
って事でR294をひた走っているともうスゴイ絶景♪♪
『SDカードが入ってねーじゃねーか!』
やっちまったぁ〜!!!!
よくやってしまうんですよね〜コレ。
SDカードとかMicroSCカードとか、抜き出した後に入れ忘れるパターン。
カードケースにまとめて持ち歩いているんだけど、そのケースはどこ??
しょーがね〜、セブンに寄ってまた調達してきます。
アイポンで撮影↑
大きな田んぼが続いててまさに黄金ロード!
めちゃくちゃ気持ちイイ道でした!(R294)
↓もうすぐ猪苗代湖
若干青空も見えてきた!
磐梯吾妻スカイラインは雨で延期
入り口付近は辛うじてドライ路面だったのですが、進むにつれて雨が強くなりついにフルウェット・・。
これは景色を堪能するのは無理!
と判断して先にらぁめんを食べて、その後もう一回来る作戦に変更!
この日の天気予報では午後2時から晴れるとの予報だったので、賭けてみます。
奥裏磐梯らぁめんや
旨いヤツやん!!
マジで旨い!
透明なスープと山塩チャーシューの相性バツグン!
濃い塩味なのに塩辛くない、初めての経験する塩味が最高!
ココでしか食べる事のできない貴重な一杯です。
大盛山塩チャーシュメン1200円を頂きましたが、チャーシューの量がまじでハンパないw
5㍉以上ある分厚いチャーシューがまさかの11枚💦
焼肉定食のランチより肉多いぞw
ツーリング飯としては最高なので超絶オススメです♪
詳細記事リンク↓
奥裏磐梯らぁめんやの山塩チャーシューが唯一無二のおいしさだった
天気を調べるが・・
ライブカメラにアクセスしても↓ご覧の通り・・・
真っ白けっけ・・・(゜o゜;
朝の予報では14時から晴れるとなっていましたが、残念ながら雲が無くなる事はありませんでした。
急遽予定を変更して、前から気になっていた野口英世記念館に行くことにします♪
道中、裏磐梯山のゴールドラインを通ります。
キレイな道のワインディングでとても楽しく走れました。
リズムとしては伊豆の箱根峠〜熱海峠を抜ける県道20号に近く、コーナーの半径がもうすこし大きいイメージ。 ツーリングで走るには最高の道です♪♪
途中、山湖台から猪苗代湖がキレイに見えました
福島県はどこも黄金に輝く田んぼだらけ♪
ゴールドラインを降りてから英世記念館まで、辺り一面、金色!金色!金色!
丁度太陽が出ていた事もあってホントに輝いてました。
景色が良すぎて速く通り過ぎるのがもったいないくらい。
犬の散歩くらいのスピードが丁度いいかもなぁ〜
↑iPhoneで撮影
野口英世記念館
↑野口英世が生まれた生家が保存、展示してある。
なぜ英世記念館に行こうと思ったのか?
Andyが野球少年だった小学生の頃、名門第三野球部という漫画が好きで友達から借りて読みふけっていました。
スーパー弱小チームからのし上がっていくストーリーに惹かれますよね〜
高校生くらい?になると、同じ著者のむつ利之さんが「Dr.NOGUCHI」という連載をスタートした事を知ります。
第三野球部が大好きだったので、直ぐに読んでみると・・・
野口英世の生涯について、リアルに書かれていました。
しかも読み始めた最初は実在する人物の物語である事は知らずに読んでいましたww(アホ)
幼少期の頃に手に火傷を負い、それが引き金となっていじめられ、馬鹿にされ、様々なところで火傷が原因で諦めざるを得ない状況が訪れる。
しかし果敢に立ち向かい、確実に成長していく姿には当時から元気をもらっていたような気がします。
時は経ち、Andyが本田技術研究所へ就職し配属先に居た先輩「N◯田」さん。
5つ上で東北の岩手県出身のとても優しい先輩で、Hondaの「AquaTrax」と言う水上バイクの開発を担当していた事もあり毎年夏になると猪苗代湖へ連れてってくれてたんです。
その時、いつも野口英世記念館の前を通ってジェットスポットに行くんだけど、毎回通るたびに「ドクターノグチ」の漫画の事を思い出していました。
大所帯で動いていたので、俺だけ「ココ行きたい!」とは言い出せず、ずっともやもやしながら通過していました。
そこから更に時が経ち、N田先輩はアメリカへ駐在、自分はHRCへ移動→退職など行くタイミングも無くなってしまいました。 そしてココへ来てまさかの英世記念館をGoogle Map上で見て思い出しました!
と言う事で20歳からずっと気になり続けてたいた野口英世記念館に行くことにしました。
知らない事だらけでビックリ!
漫画を読んでいた事もあって、大枠のストーリーは知っているつもりでした。
記念館が気にはなっていたものの、よくある「税金対策で建てたんじゃね?」というよくありがりな、入ってみたらイマイチだった・・
的な内容を想像していました。(ゴメンナサイ)
ノグチワクチンは効かない!
黄熱病患者に対して作ったノグチワクチン。
効く人、効かない人がハッキリと分かれる結果になったそうです。 効かない人も一定程度居たため、「ノグチワクチンは効かない!」と噂が広まる。
後に分かったそうですが、ノグチワクチンは「ワイル病」に対し効果を発揮し、黄熱病には効いていない事が判明したそう。
黄熱病は英世死後25年後に発見
野口英世が生きていた時代は、光学式顕微鏡しかなく物理的に黄熱病ウイルスを見る事は不可能だった。
死後25年後に開発された電子顕微鏡ではじめて人類が目にする事となる。
母シカの英世に対する愛
24歳で単身渡米した英世、15年後の39歳で日本へ初めて帰国したそうです。
そのキッカケとなったのが↑母の「帰ってきてくれ!」と切実な想いを綴った手紙。
母シカさんは文字の読み書きができない人だったんだそうです。 文字を一から勉強し、たどたどしい文字で書かれた手紙は、100年を超えた今でも母の息子に対する愛が溢れているように見えました。
文字の勉強をし、後に国家資格である産婆さんの資格を取り2000人ほどの出産に貢献したんだそう。
24で渡米してから15年もの間、一度も息子に会えない事を思うと涙が出ます。
旅客機のない時代、行き来は船しかなく時間もお金も掛かる事を考えると現代は、なんて素晴らしいんだろ!と思わずにいられません。
英世記念館は生家を保存していた!
最初はこの碑の意味がよく分かっていませんでいしたw なのでこんな事を考えていました↓
どうやって運んできたの??
一度解体→ 運搬→ 組み立てたの??
スタッフさんに聞いたら驚愕の答えが!!
だから生家は移動していませんよ
当時の場所に当時のまま保存しているんです☆
まじかーーーー!!
びッくらぶっこいたーー!!
とても貴重な経験だなと思いました。
戦争を間に挟んでいるのに、当時のそのモノ全てを今この目で見れるという凄い状態ですよ
舐めてました。 完全に舐めきっていました。
舐めてた自分を全力でブン殴ってやりたい!(ビシッ!)
100年前の物語が目の前に広がってるってもはやロマンしかない。
改めて英世記念館の凄さを知れたような気がします。 二十歳の頃素通りさせた先輩が悪い!(笑うとこですw)
野口英世記念館を見て
訪れる前、気にはなっていたもののそこまで期待はしていませんでした。
漫画で読んだことのある延長くらいかな? なんて思っていましたがいい意味で打ち砕かれてしまいました。
一言で表すなら
”偉大なる母の愛”記念館
そう感じました。
来館後に調べたところ、民間旅客機の初めての定期路線運行は1922年だそうです。
※出典:民間会社の定期航空開始
つまり野口英世がアメリカを往復するには船しか無かったという事ですね。
太平洋を船でいくとどの位の日数が掛かるんだろう・・ 現在では西海岸まで約12日ほどだそうです。
野口英世が渡米したのが1900年。 100年以上も前の船・・・1ヶ月近く掛かるのでしょうか?
現代の地球を1周するより難しそうです。
行くだけでも困難なアメリカ、帰ってくることの方が困難ですよね。 アメリカから日本に帰るにしても乗船券を買わなければ乗れない。
そのためには最低でも乗船券分のお金をアメリカで稼がなきゃならない。
行かない理由、止める理由は探せばザクザク出てくると思います。
そんな事を考えながら記念館外にある野口英世の生家を見た時思い出しました。
「志を得ざれば再びこの地を踏まず」
なのかなぁ〜。
元は医師を目指して上京する時、柱に刻んだ言葉だそうですが人生のあちこちで言霊として生き続けているように思います。
幼少期におちてしまった囲炉裏。
手に火傷の傷を負ってしまったからこそ成し得た運命なのか?
なんとなくそう思っていた部分もありますが、自分の中では違う! と考えが変わりました。
このように思いました。
手紙は何度読んでも本当に泣けます。 なんていうか、母ってこんなにも子供を愛せるんだなと・・。
想像ですが、親子で暮らしていた時も手紙と同じように愛情をしっかりと受け止めていたんじゃないかな?
手紙だけに愛があるのではなく、シカさんが大きな愛をもっていた。
それを見続け、受け続けた英世のみならず親子の愛の結果が、偉人 野口英世を創ったのだと・・。
そしてその大きな愛は今も記念館の中はもちろん、福島県民や会津若松の人の中にもしっかりと享受されているように思います。
英世記念館への寄付された方々の多い事にもビックリ。
それだけ愛されている証拠なんだと感じます。
また、野口英世は黄熱病ウィルスを発見できていなかった事もしっかりと伝えている事にも驚きました。
情報をしっかり正確に伝える為の工夫が至るところにあって、違った意味で感慨深かったです。
情報伝達スピードが100年前に比べて比べられないほどに早くなった現代、本当に正しい情報だけにたどり着けているとは思えません。
フェイク、ガセ、作為的な情報も本物に紛れて溢れかえっています。
一見便利なようで踊らされてしまっているのかな? とさえ思う時もあります。
情報発信、受信の両方が簡単になったからこそ、これからは発信者の人柄とか人格とか人徳なんかが同時に必要になるのかな。
「その情報は誰が、どんな想いで」発信したものなのか?
その意味で母シカさんの愛を知り、福島県の野口英世に対する愛を感じられる情報を受信できた事はとても大きなヒントになりました。
38歳になって記念館で泣かせられるとは夢にも思わなかったよ!笑
野口英世記念館、本当に良かった〜!